しみず芸妓の歴史

浪曲「清水次郎長伝」の名調子「旅ゆけばぁ~」で知られる清水港。平成15年に静岡市と合併し、現在は静岡市清水区、Jリーグ「清水エスパルス」のホームタウンとしてもその名を知られています。
特定重要港湾を擁す工業都市ですが、もともと「清水港」のスタートは街中をゆったり流れる巴川の河口から始まりました。
当時の河口周辺は海運問屋が数多く立ち並び、まさに物流の拠点として大変なにぎわいを見せていました。芸妓さんを抱える「置屋」もこの地域に集中し、学区名の「清水」が花街の代名詞になっていました。

戦時下の芸者衆
戦時下の芸妓衆

ところが、明治22年(1889年)の東海道線の開通に伴い市内の様相が一変し、繁華街は巴川河口周辺から新設された「江尻駅」(旧「清水駅」)へ移り、それにつれて花街も巴川河口周辺から江尻方面へ移って行きました。
その後戦災に見舞われ市街地は大打撃を受けましたが、戦災復興でにぎわう最中、昭和26年に全国でも珍しい「清水芸妓学校」が開校。開校式は「150人を上回る芸妓さんでごった返した。」と、いわれています。

芸妓学校開校式
芸妓学校開校

高度経済成長時代も終わりを告げる昭和40年代の後半になると、今まで続いた好景気の反動で商習慣も変化し、芸妓さんの活躍する機会も料亭も徐々に減っていきました。
昭和48年(1973年)には、経済界の有志が「伝統ある花街の灯を消してはならない。」と芸妓さんの支援組織「清美会」(「静岡伝統芸能振興会」の前身)が発足しました。
また、平成3年には経済界と芸妓衆の共同出資によって新人芸妓を社員として雇用する「清美(株)」も誕生し支援の輪は広がっていきました。
しかし、急激に訪れた景気の低迷は花柳会をも深刻な状況に陥れ、平成16年(2004年)には芸妓会社は解散してしまいましたが、当時の社員芸妓も立派に育ち、今では一本さんとして立派に成長し、清水の花街を支えています。
その後芸妓衆を取り巻く環境はますます厳しいものになっていきましたが、昔からの芸処としての伝統は芸妓衆によって頑なに守られ、「清水をどり」(平成10年をもって休止)や「春の舞」(平成21年をもって休止)、「春の宴」などを通して市民に披露してきました。
最近では、清水港に入港する豪華客船(平成24年:飛鳥Ⅱ、アマデア、コロンバス)への歓迎行事(花束贈呈やクルーズのお客様へ歓迎の舞披露)にも参加するなど観光振興にも大きな役割を担っています。

港まつりの船の山車で踊る芸妓衆

港まつりの船の山車で踊る
芸妓衆