しずおか芸妓の歴史

徳川家康公の大御所政治として知られる静岡市は、その昔「駿府城」を核にした街並整備(区画整理)が行われたことにより、素晴らしい大城下町が築かれ、現在もその面影は色濃く残っています。
特に東海道53次の「駿府宿」として多くの人々が行き交い、慶長13年(1608年)には安倍川畔の一角に大門が建てられ大がかりな廓が形成されました。
それぞれの廓には芸者が居てお客を楽しませたようですが、明治5年(1872年)になると「廓芸者」と一線を画した「まち芸者」が登場、さらに明治10年(1877年)には常磐町の一角に芸妓衆の活動拠点ともいえる「見番」が設けられ、芸妓衆の一元管理を始めました。
この頃には双方の芸者を合わせて20人ほどでしたが、10年後の明治20年(1887年)にはまち芸者も100人に増えていました。当時の記録では料亭も大変な賑わいを見せ、この時代に創業し現在まで存続している老舗の料理店も文献の中には出ています。

静岡芸妓(昭和10年)

静岡芸妓(昭和10年)

明治22年(1889年)に東海道線が開通すると、東京と名古屋、大阪を結ぶ中継地点として大変な賑わいを見せ、大正から昭和にかけて芸妓数は最盛期を迎えます。
ちなみに昭和13年の芸妓数は260人、静岡芸妓は「芸と行儀」で全国的に高い評価を受け、静岡でお座敷に出ていたというだけでお手見せ(採用試験)免除で各地のお座敷にお目見えしていました。
ところが、昭和15年(1940年)1月に静岡市を襲った大火は市街地中心部に大きな打撃を与え、芸妓衆のシンボルであった見番も消失してしまいました。
更に災害復興が軌道に乗りかけた矢先、昭和20年(1945年)の静岡大空襲に遭遇し静岡市街地は壊滅的な打撃をうけました。
2つの出来事を機に静岡の花柳界は斜陽の一途をたどり、昭和60年(1985年)には再建した見番も売却するなど徐々にその力を失い、この時点で芸妓の数は13人、平成23年(2011年)になるとわずか2人だけになってしまいました。

明治中期の町芸者

明治中期の町芸者